忘備録 【ソ連文化史に関して】

今は主にショスタコーヴィチ関連。

『グリークマンへの手紙』和訳 p.4

(p.4、16行目から)

  このことについて、プーシキンは1825年11月下旬、ミハイロフスコエから友人のP. A. ヴァーゼムスキーに宛てた手紙に、興奮気味に書いていた(*)。プーシキンの手紙の驚くべき点は、回想録の話題に関する実に意外な視点や反復、また、天才と張り合うため、同等になるために、私的な生活において不可避な弱みを貪欲に探し出そうとする群衆の、卑劣な好奇心から天才を守ろうとする意欲である。しかも、プーシキンの解釈では、「群衆」とは、詩人に敵意を持って対立する、保守的かつ愚かな勢力なのだ。周知の通り、このような理念が、彼の一連の詩作品の根底にあったのである。

  この手紙の中で特に注目に値する数行を敢えて引用してみよう。「何故君はバイロンの覚書が失われたことを嘆くのだ?あんな物なんて!失われたのは有難いことだ。彼は無意識に詩の喜びに没頭しながら、詩の中で自らについて告白していた。(…) 群衆の好奇心なんて置いておいて、天才と同じ見解を持つのだ。(…) 我々はバイロンをよく知っている。我々は、彼が栄光の玉座にいる時も、偉大な心の苦しみの中にいる時も、そして復活するギリシャの真っただ中、棺の中にいる時も、彼を知っていた。君は船に乗っている彼など知る必要などないだろう。群衆が懺悔やら覚書やらを読みたがる理由は、自らの卑劣さから、名誉ある者に対する侮辱や、強い者の弱みを喜ぶからだ。あらゆる不埒の発覚で、彼らは満悦している。『彼は下劣なのだ、我々のように、彼は卑しいのだ、我々のように!』それは嘘だ、下賤な奴らめ!彼が下劣で、卑しいとしても、お前らと同じような卑劣さではない、違う意味だ!」(**)

  プーシキン1827年付の覚書の中で、この、不安を引き起こす、そしてこれほど強烈に述べられた話題に回帰したが、ここではもう少し落ち着いた、柔らかい口調で述べられていた。

  プーシキンの公式に当てはめると、ドミトリー・ドミトリエヴィチは自らの作品の中で告白をしており、それらの作品は、それ自体の絶大な客観的価値を差し置いても、彼の内面的な伝記として成り立っている事を確信できると、私は思う。私が観察した限り、ショスタコーヴィチは、外面的な伝記に関しては基本的にほとんど興味を持っていなかった。

  彼は文通相手の手紙を収集することも、保存することもせず、文通相手にもその手本を見習うことを促した。私は彼の口からこのような質問の決まり文句を一度となく聞いたことがある。「君は手紙を保存しているのか?何故だ?何のためなんだ?」ドミトリー・ドミトリエヴィチは"i"の上に点を打つことはしなかったが、あからさまに、何の意味も伝えていない自分自身の手紙のことを意味していた。

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* 驚くべきことに、プーシキンはまさにこの頃、自分の回想記を創作していたが、最終的に彼はこれを燃やした。

** プーシキン往復書簡集 全2巻、モスクワ、1982年、1巻、237頁

 

(p.4、最終行まで)