忘備録 【ソ連文化史に関して】

今は主にショスタコーヴィチ関連。

『グリークマンへの手紙』和訳 pp.3-4

(p.3、13行目から)

  ドミトリー・ドミトリエヴィチの、回想録のジャンルに対する嫌悪をよく知っていながら、それでも、私は敢えて、彼が深く崇拝していたピアノの先生であるレオニード・ヴラジーミロヴィチ・ニコラーエフについて、数ページ書いてくれるよう、彼に依頼した。その時、私は、精力的で根気強い論集編者とドミトリー・ドミトリエヴィチとの間の仲介役という、あまり有難くない役を演じていた。それは1975年3月17日で、M. S. ヴァインベルグのオペラ《マドンナと兵士》のレニングラードでの初演、マールイ・オペラ劇場でのことだった。我々は隣同士で座っており、休憩時間に、躊躇いなくというわけでもなかったが、私は、言わばその記事の構想などは、全く書く意味がない、という話から始めた。ドミトリー・ドミトリエヴィチは激昂した。彼はあっという間に普段の自制心を失い、そしてカッとなって私にこう答えた。「その編者たちにこう言っておいてくれ、私は作家ではないということ、そして私は多少なりとも楽譜を書くことは出来るが、他人や自分についての回想録などは書けない、ということを!」

  私はもちろん、意図せずドミトリー・ドミトリエヴィチを失望させてしまったことを悔いた。これが彼の人生の最後の春であったなんて、私が予想できただろうか!

  この激しい回想録恐怖症、もしこのような表現が可能ならば、の発作は、A. S. プーシキンのいくつかの発言と何やら似通ったものを、奇妙な方法で思い出させた。

  トマス・モアがバイロンの回想録を燃やしてしまったことが明らかになった時、この偉大なイギリスの詩人の熱心な崇拝者であったプーシキンは、彼の前で頭を下げ、そして、事件をあらゆる手段で肯定した。悲しむでもなく、心を痛めるでもなく、反対に、高価な文章の消滅を喜んだのだ。彼は、バイロンは回想録を必要としていないと考えていた、何故なら、バイロンは自らの詩の中で、自分について告白し、語っていたからだ。

(p.4、15行目まで)